2007年6月 7日 (木)

ハイテク凱旋道・山田道

昨日に続いて「道」。田村麻呂の墓は、平安京羅城門へと続く交坂路(滑石越とも。)で見つかりました。述べたようにここは田村麻呂の凱旋道でもありました。*滑石の名がついた理由は知りませんが、滑石とはとても軟らかい石で、加工しやすさから勾玉などにも使われていますね。現在も勾玉作り体験なんかのセットにはこの石が入っています。)

今朝の新聞に登場したのは、明日香の古道「山田道」。日本最古の「贄(にえ)=税」の文字が書かれた木簡が発掘された石神遺跡で昨年3月見つかった道です。この道は、飛鳥の歴史の中で、さまざまな重要局面で登場する道です。

この道を通って飛鳥に入ったと思われる著名人?は、まず輩世清。あの聖徳太子が送った「日出る…」の文書のときですね。小野妹子とともに来日したのが中国のハイセイセイどの。もちろん「中華思想」の時代、日本くんだり?まで来るのは低い身分の役人。そして、大化の改新で中大兄皇子暗殺の疑いで軍勢に囲まれた蘇我石川麻呂が敗走して飛鳥に入ったのもこの道。彼は、自分の建てた山田寺で自害。(この寺の側を通る道だから「山田道」と名付けられたのですが、ヒサンな最期ですね。)

そして、壬申の乱では、勝利した大海人皇子が凱旋して伊勢から飛鳥に入ったのもこの道といわれています。

権力者の栄枯盛衰を見つめてきた道ですね。

今回の調査で、この道、当時中国から伝わったハイテク技術が駆使されたものであったことがわかりました。

道幅18m(今なら4車線道路並み)。道には長さ80㎝~1mに切りそろえた榊などの広葉樹の枝を敷き詰め、その上に砂と粘土質の土を交互に盛る…こうすることによって、水はけが格段によくなり、地盤が強くなるわけです。当時最先端の土木技術「敷葉工法」です。その脇には石組みの溝。見事な大道ですな。

全長約5㎞のハイテク道。凱旋はさぞ気持ちよかったでしょう。

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2007年6月 6日 (水)

古代の猛将・田村麻呂

おひさしぶりでございます…というのも憚られるほどのごぶさたでした。歴史から離れていたわけではございません。来春出版予定の、戦時下のくらしについての調べものなどをずっとやっておりました。真に世の役に立つ本にしたいと思っています。…と書いていても、以前読んでくださった方はもう立ち去られ、門前雀羅状態でしょうから、ま、ひとりごとで。

さて、先日ちょっと京都へ行き、なぜか車窓から、異界との境・鳥辺山に目が留まりました。清水寺周辺は、昔から妙に心惹かれるものがあります。清水の舞台から下の谷に死体を捨てていたという話も異様ですし、そのむこうの鳥辺野…京都随一の観光スポットでありつつ、異なるものの風情を残す場所…というのが、私の印象です。(梅宮辰夫の店前の本人人形も印象に残りますが?)ともかく妙な場所です。

その創建者・坂上田村麻呂。戦前までは文の王者・菅原道真とともに、「文武の王者のシンボル」として君臨していた人ですね。しかし、近年はめっきりで、受験日本史で、坂上田村麻呂=蝦夷征討・蝦夷の王者アテルイを討つ…という程度でしょう。そして、征夷大将軍のルーツであることくらいまで覚えるという具合ですね。そして、それ以上を知る人は少ない。(「それ以上」は、今日は書けませんけど。)

清水寺は、田村麻呂41歳の時に創建されました。798年。…

そして、いきなりですけど、没年月日は811年5月23日(!!私の誕生日!…全くどうでもいいけど。)

なぜいきなり没年かといいますと、これが今回の一番のネタ。この田村麻呂の墓が特定されたという記事です。今まで墓所は曖昧でした。しかし、6月3日、ついに文献によって特定されました。京都・西野山古墳がそれです。清水寺から山ひとつ越えたところ。今まで田村麻呂の墓とされていたところではなく、ここには「奉仕団体によって建てられた石碑」があるだけのところだそうです。

しかし、ここからがやや不思議なのですが、大正8年には、この古墳から、周辺を木炭で覆った木製の柩と、純金の大刀、鏡、鉄製ヤジリ、硯など「正倉院御物にも匹敵する」超豪華な副葬品が発掘されていたのでした!それがなんで、奉仕団体…?ま、それはそれとして、この持ち主がなんと田村麻呂だったのです!

しかも、この場所は、平安京から奥州へ向かうための重要ルート。田村麻呂は蝦夷を討ったあとここを凱旋帰国したわけです。その、平安京の入り口にこの墓はあります。

そして、なんともここからが「古代の猛将」らしい逸話なのですが、田村麻呂(54歳で病死)は、勅命により、立ったまま、甲冑を着て、東に向かって葬られたそうです!!死してなお、東国を睨み、平安京を護る。ますます清水寺周辺に惹かれます。

*またまたどうでもいい話ですが、産経新聞のこれに関する記事の下には「大林組の社長が引責辞任」の記事。大林組といえば、古代研究のプロジェクトチームで、大山古墳や出雲大社の魅惑的な研究をしてきたところ。古代史好きとしては、なんとも粋な企業だなと思ってきたので、ぜひともイメージ挽回して欲しいですな。

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2007年2月18日 (日)

さらば朱雀

朱雀さんも無事剥ぎ取ることができたようでよかったですね。さすが、ダイヤモンド!

毎日新聞記事

文化庁は15日、奈良県明日香村の特別史跡・キトラ古墳(7世紀末~8世紀初め)石室南壁の四神(しじん)・朱雀のはぎ取りに成功したと発表した。04年9月の全面はぎ取り決定から2年半。これで四神と、確認された十二支像はすべて外され、今後は残る天文図(天井)のはぎ取りが検討される。
 はぎ取りのために開発したダイヤモンドの粉末を埋め込んだ鉄線「ダイヤモンドワイヤ・ソー」を使った。朱雀の上下にアルミ製のレール(長さ約60センチ、幅3センチ)を設置して安定性を確保。太さ0.3ミリの鉄線を巻き取りながら動かし、約1時間で、周囲の余白を含む縦22センチ、横52センチの漆喰(しっくい)を1枚で外した。
 南壁の凹凸や漆喰の厚みの違いなど作業には困難も予想されたが、終始スムーズに進行。ワイヤの浮き上がりや道具のトラブルもなかったという。東京文化財研究所の川野辺渉・修復材料研究室長は「自信はあったが、すんなり取れた。ほっとした」と話した。

また他の新聞に載っていた古墳周辺の人たちのコメントに感銘を受けたのですが、四神の最後のひとつまで「いなくなってさみしい」。…うーむ、いつも密閉されていて見ることもできなかったのに、そんな感情を持つものなのですね。奈良に住む方々の、遺跡とのその一体感はうらやましくもあります。

あとは天体図が残るのみ。その天体も寝食が激しく、「朱線=赤道」にまで及びそうと書いてありました。しかし、赤道だけ剥ぎ取るわけにはいかないもんなぁ。

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2007年2月12日 (月)

バレンタインデーとカビ

石室内のカビで有名になってしまった奈良・キトラ古墳。その壁画・朱雀の剥ぎ取り作業がバレンタインデーとその翌日に行われるそうです。

新聞記事には「1300年もの間、カビに侵されながら被葬者を守り続けてきた朱雀を「不死鳥のようによみがえらせたい」…と書いてあります。「朱雀」と「不死鳥」の懸詞、うまい。それよりも私の興味をひいたのは、漆喰部分の剥ぎ取りの道具です。「ダイヤモンドワイヤーソー」というものらしい。なんでも以前の失敗に懲りた研究者が、全国を探し求めて福井県で「発見」したものらしい。(その割には、インターネットで簡単に検索、費用までわかってしまったけど…それは「発見」後だからかな」?)

さて、そのワイヤーソーなるものは、というと

ダイヤモンドワイヤー・ソーは、ダイヤモンドの粉末をまぶした鉄製ワイヤーの電動カッター。四駆用ラジコンカーのモーター2台でワイヤーを秒速4メートルの速さで駆動し、石材から漆喰(しっくい)面を剥(は)ぎ取る。重さは1キロ強でカッター部の長さは20センチから1メートル。ワイヤーは半導体基盤の切断用のもので、直径0.43ミリ、長さは約300メートル…

らしい。

1300年の壁画の破損の危機を負っての作業。がんばれ!!朱雀くん!!

バレンタインデーにダイヤの輝き、そして永遠の愛…じゃなくて保存を!!

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2007年2月11日 (日)

星糞峠

私にとって、黒曜石は実に魅力的な石です。石ごとに異なる不思議な透明感、鋭い「刃先」は、どれだけ眺めていても飽きません。私の書斎のこの机の周りにも、大小たくさんの黒曜石が置いてあります。執筆などに疲れたときは、ほんとうに黒曜石を眺めたりしたいるのです。古来、この石が魔除けにされてきたのもむべなるかな、です。実際、黒曜石のある種からは遠赤が出ているともききました。

さて、その産地として国内最大級なのが和田峠一帯です。(以前のブログにも書きました。)先日の新聞で、この一帯の石器時代の採掘跡などを「世界遺産登録」に名乗りを上げていることを知り、ファンとしてとてもうれしくなりました。旧石器人?たちにとって、まさに「宝の山」でありロマンあふれる地であったと思います。

この黒曜石産地周辺には「星」がつく地名が多いのもロマンチックです。例えば、「星ヶ台」「星が塔」…きっと黒く美しい光沢を持つこの石を、「星のかけら」とでも考えたのでしょう。素晴らしいレトリックです。…しかし、そのロマンチックさに?をともすのが「星糞峠」…「糞」とは!

そこで、ちょっと調べてみたところ、このあたりは鹿が沢山生息していたとのこと。なるほど、鹿といえばつきものの「鹿の糞」。これが山裾にゴロゴロしていたであろうことは、奈良公園を見ただけでも十分わかります。つまり、この周辺の峠には黒曜石の石片(最近まで和田峠周辺は地表が黒く見えるほど黒曜石の石片がごろごろしていた)と鹿の糞がごろごろと転がっていたというわけです。そこで、古代人はこれは、「鹿の糞」だけど、これ(黒曜石)は「星の糞」と考えたってわけかもしれません。世界遺産の糞。うーーむ、ロマンチックやなぁ???P1030300

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2007年1月27日 (土)

オトコと洗濯

私は水が好きで、食器洗いや風呂洗い、体洗い?が好きなのですが、洗濯することはあまり好きではありません。下宿していたときも洗濯が一番厄介でした。そういえば、「オトコの家事」といわれても通常、洗濯はあまり入っていないような…?

さて、その歴史的考察?を…

時は平安。奈良仏教を嫌って、桓武天皇は平安京に遷都しました。そして、新しい仏教がおこることを強く望んでいました。そこにニューホープが登場!空海と最澄です。

空海は、唐で学び、密教の正統な後継者として認められました。帰国後は、高野山を開き、山上を聖地として日本に密教を広めました。

密教は、「真言秘密の法」ともいわれ、印を結び、呪文を唱えることによって現世利益を得るという秘法でした。

密教の聖地・高野山は女人禁制でした。そして、僧が聖地に入るにはまず「穢れ」を祓うことが必要でした。そこで、高野山の麓で、女性が僧衣を洗濯するという風習ができました。この洗濯は女性でなければなりませんでした。なぜなら、女性には穢れを浄化する力があると考えられていたからです。つまり、密教において「洗濯」は、女性による穢れ祓いの儀式だったわけです。

なるほど、私が洗濯をしない理由がわかった??

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2007年1月21日 (日)

信玄とインターネット

武田信玄。いうまでもなく、乱世を生き抜いた戦国武将です。戦国大名は、守護大名と違って、領内の富国強兵に努めました。信玄はその代表格です。

信玄は優れた戦略家であるとともに、優れた民政家でした。

戦略面では、特に情報管理を重視しました。「上杉謙信が川中島方面に出陣!」という情報は、信玄のいる甲府まで2時間で伝えられたそうです。

情報伝達のスピードでは、信玄の狼煙(のろし)利用では、およそ時速100㎞程度といいます。通常は騎馬利用でしたので、かなり速い情報伝達力を持っていたわけですね。もちろん、領国内にはたくさんの狼煙台を設置しました。

また、情報面では、狼煙の利用だけでなく、諜報活動も重視して、いわばスパイ集団「諸国使番衆(しょこくつかいばんしゅう)」を組織しました。これによって、全国に数百人のスパイが散らばっていたわけです。かの山本勘助もそのひとりです。

「人とけむりのインターネット」ですね。

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4か月のご無沙汰でした。

途中で、近日再オープンなどと銘打ちましたが、看板に偽りアリでしたので削除したりしました。おひさしぶりでございます。

もう富士山のような休火山ではなく、死火山と思われた方も多いかと存じます。いや、死んではいません。…が、今後も多分ときどき煙を出す程度かなと思いますが、時には出さないと生きてるかどうかわかりませんので、出します。

マグマはたくさんあるのですが、ね。

また、時々よろしくお願いいたします。

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2006年9月20日 (水)

なにわ歴史写真 その参

大阪城から、難波京跡に向かいました。歴史博物館の上の階から見ていたので、すぐだと思っていたら、道を間違え、しばしさまよいました。バードアイとインセクトアイはかくも違うものかと思いました。そこで役に立ったのが、昨日アップしたデジカメ写真。宮横のビルを目当てに行きました。(ワタシは、写真手前の道を曲がっていたわけです。どうでもいいけど。)

宮跡は、公園になっていました。大極殿あとには、アベックやひとりたたずみ、パックジュースを飲む青年などが座ってらっしゃいました。いにしえに想いを馳せていた…わけないよね、アベックは特に。ちょうど座りやすいだけでしょう。ここに来たときにはもう薄暗くなっていたので、デジカメ写真もデバガメ写真と間違えられないように少し気を遣いました。オレの方が正統なんだぜ!とはいいませんでしたが、私は真面目にいにしえに想いを馳せていました。大阪城も正面に見えています。その間を鉄道が切り裂いていましたが。平城京跡もなかなかロマンがありますが、この幻だった大極殿跡もいい。うないぐあいに、さきほど想いがけず歴史博物館で実物大再現大極殿を見たばかりでしたので、イメージ化は豊饒なものとなりました。

さて、難波は、古代の主要交通路であった瀬戸内海の東端という地の利がありました。ここに仁徳天皇が宮を開いたという伝承が『日本書紀』にあるそうです。実在?の仁徳さんがね。その後、孝謙天皇、聖武天皇がこの地に都を造りました。しかし、長い期間、難波宮の所在地は不明でした。それが発見されたのは、1961年。発見者は「われ、幻の大極殿を発見せり」という言葉を残しています。あちこちにミニシュリーマンはいるものですね。

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P1010971 聖武天皇気分でパックジュース青年。豪勢ですな?

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大阪城側。

ここでのんびりいにしえイメージに浸っていたら、かなり暗くなってきて、ふと大阪城に目をやると、大阪城に目!なんと金色のトラがライトアップされて光ってる!!早速城に再度向かいました。美しいライトアップオオサカキャッスルをどうぞご覧ください。

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2006年9月19日 (火)

ヘビイ・インパクト(なにわ写真番外編)

本日2本目。おやすみ前のアナタに贈りますP1010931

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オエものですが、江戸時代にしてこの技術!日本人おそるべし!

おそるべし…といえば、1枚目の写真はフラッシュなし。同じモノに同じアングルからフラッシュを当てたら………生き返ったぁあああ!!

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オヤスミ、ハニー 

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